アッサラームの街を夕暮れが包み込むと、街は昼の様相とは打って変わった夜の顔へと変貌を遂げ始める。軒下に出ていた食料品の屋台は姿を消し、怪しげな薬や酒や曰くつきの品を売る店が次々と建てられていく。そして、娼婦の姐さん達が街角に姿を現す頃には、短いこの地方の夕暮れは終わり、街は夜の帳にその秘めた雰囲気を隠されるのだ。しかし、昔と変わらない様に見えるアッサラームの夜も魔王時代とは違い、あの頃にあったあの陰惨な空気が消えていた。より闇深い路地に漂うのは、裏の世界に生きる人々の醸し出す、あの独特の空気のみだ。
 歓楽街として賑わい始めた街の大通りを、ルーアたちは宿屋へと歩を進めていた。
ルビーと別れた後、宿へと戻るにはまだ時間が早いこともあって、ルーアたちは街を見物することにした。新しく出来た施設や劇場を見たり、屋台売られる菓子を食べたりと、以前の旅では出来なかった、年頃の少女がするような買い物をし少女たちの心は晴れ晴れとしていた。
 もちろん、見物の最中にコーディが居ないか探しはしたが、どうせ宿で落ち合うのだと、それほど気にも留めずに、彼女らは観光を満喫したのだった。
「あいつ……ちゃんと宿屋に戻ってくるかしら?」
 マーが少々眉根を寄せ、唇を尖らせて言う。
「大丈夫だよ〜。コーディ君、約束破らないし」
「ま、心配はしていないわ。あんな奴でも、一応、仲間なんだし」
「お!マーちゃん、何々?コーディ君のこと、信頼しちゃってるんだ?」
 アサナの茶化す言葉に、
「そ、そうよ。悪い?」
 と、そっぽを向いて言った。
「わ〜!マーちゃん、すごい!大人になったねぇ。
 前だったら、絶対に『そんなことあるわけないでしょ!』とか怒ってたよね!」
「アサナっ!!」
 良い子良い子と頭を撫でられたマーの頬に、怒りと恥ずかしさで赤みが浮かぶ。危険を察知し、アサナはマーの手からサッと逃げ出した。逃げたアサナをマーは顔を真っ赤にして、追いかける。
 ルーアは、そんな二人を笑いながら見ていたが、追いかけっこしながら宿屋への入り口へと入ろうとした二人の前に、人影があるのを見て、慌てて声をかけた。
「ふ、二人とも!前!」

  ドンッ!

 時遅く、二人は勢いよく、宿の扉を潜ろうとしていた人物と、正面衝突してしまった。衝撃でお互いに尻餅をつく。
「イタタタタ……」
「す、すみません」
 二人はバッと立ち上がると、慌ててぶつかった相手に、手を差し伸べ頭を下げて謝った。
 ルーアも急いで三人の元に駆け寄る。
「大丈夫よ。前を見てなかったこちらも悪かったの」
 手を支えに立ち上がったのは、黒い長い髪が印象的な、切れ長の黒い瞳をした美しい女性だった。生成りに黒で文様の描かれた短いチュニックを着、太ももまであるピッチリとしたズボンをはいている。脛まで編み上げたサンダルは、濃い赤茶で、踝部分に小さな金の細工が付いてた。彼女が立ち上がると、その飾りが揺れ、小さくシャラシャラと音が鳴った。
「あ、怪我を……」
 見ると、彼女の膝が擦り剥け、血が流れていた。
「ホイミ」
 アサナが軽く手をかざして唱えると、傷はたちまちに癒え、微かにも痕は残っていない。
「ありがとう」
 女性はさして驚いた様子もなく、薄く微笑み礼を述べる。
「もう!二人とも、気をつけなきゃ駄目じゃない!
 私達の力は普通の人よりも強いんだから!」
「ご、ごめんなさい」
「膝を擦りむいただけで済んだから良いようなものの、もしも、壁まで吹っ飛ばしたりしてたら、どうするつもりなの!?魔王討伐の旅が終わったからといって、周りに注意を払わないのは----」
「コ、コーディ君は戻ってるかな〜?」
 クドクドとお説教を始めたルーアから、アサナはとぼけた口調で、宿屋のカウンターへと逃げていった。マーもそそくさとアサナに続いて逃げて行く。
「あ、もう!
 ……本当に申し訳ありません。他にお怪我はないですか?」
 女性にむかい、ルーアが声をかけるが、彼女は驚いた様に目を見開き、アサナの後姿を見つめ、ルーアの声に気づかない。
「あの……?」
「あぁ、ごめんなさい。大丈夫よ」
 ハッと女性は慌てて視線をルーアに移し、先ほどのようなやや冷たさを感じさせる印象に戻る。
「そうですか、良かった。では、私はこれで」
 ルーアは微笑むと、カウンターへ向かった二人を追おうと女性に背中を向けた。
「待って」
「?」
 呼び止められ、顔を後ろへと向ける。
「あなたたち、コーディを知っているの?」
「え……?はい……」
 女性の急な言葉に戸惑いながら、ルーアは素直に答えた。
 この女性は、何故、コーディさんの事を知っているのだろう?
 この人も、コーディさんの過去に関係が……?
「あの……」
 コーディさんとお知り合いなのですか?ルーアがそう聞こうとした瞬間に、
「ありがとう。じゃあね」
 女性は踵を返して、宿の入り口を出て行ってしまった。
「………」
 ルーアは、女性のコーディの名を聞いたときのルビーとは違った驚愕の表情に、芽生えた不安を打ち消すように頭を大きく一つ振ると、カウンターの二人の元へと向かったのだった。


 コーディは、宿の食堂でアッサラームのゴシップ誌を読みながら、3人が来るのを待っていた。
 真っ先に食堂の戸をくぐったアサナが、
「コーディくーん」
 と、彼を見つけ手を振ると、コーディは軽く手を上げにこやかに微笑んだ。
「もう、コーディ君ったら急に行っちゃうんだもん、ビックリしたよ〜」
「そうよ、一体全体、何で逃げた訳!?」
「ふ、二人とも落ち着いて……
 あ、すみません、オーダーお願いします」
 席に着くなり声を荒げるアサナとマーを宥め、ルーアがウェイトレスを呼ぶ。二人ともコーディを問い詰めるのに夢中で夕飯の内容にまで気を配る余裕は無さそうなので、ルーアはカウンター上の黒板に書いてある『今日のオススメ』を頼み、他に飲み物などを注文した。ウェイトレスが居なくなると、二人は待ってましたとばかりにコーディへの詰問を再開する。
「さ、話してもらいましょうか」
「な、何を?」
 二人の剣幕を予想していたにもかかわらず、椅子の背もたれに背中をぴたりとくっつけ、逃げ腰になりつつコーディが聞く。
「聞いてるのはこっちの方よ!
 ルビーさんは、あなたの恩人でしょ。何で逃げたりしたのよ?」
「え、えーと……」
 聞かれることは分かっていた。恩人だと紹介するのも簡単だった。しかし、何か、こう、そういう自分の過去についての話をするのは、照れくさく、そして何よりも煩わしいものだった。
「て、照れくさかったんだよ!久しぶりに会ったし!
 ギョルガから聞いてるかもしれないけど、ほら、オレ、あいつの所から急に居なくなったしさ!」
「まぁ、そうね。会いにくいわよね。だからって、逃げるのは別じゃない。ちゃんと謝るべきだわ」
 自分にも思い当たる節があるのか、マーは妙にあっさりと納得した。
「コーディさんさえ良ければ、明日、私達とルビーさんのお宅へ行きませんか?」
「う……うん。そうする……」
 仲を取り持つよう出されたルーアの案に、コーディは渋々ながら了承する。ルーアのお願いに滅法弱くなったなぁと、自分自身に苦笑いしながら。
「ねぇ、何でコーディ君はルビーさんのことギョルガって呼ぶの?」
「え?あ、うーん……オレと会った時はあいつ、まだ、ギョルガとルビーを行ったり来たりしてたんだよね。家ではルビー、街ではギョルガって感じでさ。服もあんなに派手じゃなかったし。初めて会ったときの自己紹介もギョルガだったし……」
「そうなんだ」
「うん。途中から、ルビーになったんだよ。世話になった礼にちっこいルビーのアミュレット贈ったらさ、次の日から『今日から私のことはルビーって呼んで』って」
「素敵なお話ですねー」
 ニコニコしながら、応えるルーアに反し、
「……へぇ……」
 それは、ルビーさん、コーディ君に惚れてたんじゃあ……アサナとマーは複雑な表情で顔を見合わせた。
 そこへちょうど良く、ウェイトレスが食事を運んできた。いただきますと早速、料理を口に運ぶ二人を見て、アサナとマーも気を取り直して食事を始める。
 アッサラーム独特の郷土料理を、旅人が食べやすいようにアレンジされた食事は、四人の舌と腹をほどよく満たした。
 夕食を食べ終えると、コーディは疲れたと言って、部屋に戻っていき、残る少女達は食後のお茶を注文し、食堂からサロンへと移動して、今日の思い出話に華を咲かせた。露店で買ってきた、小物やアクセサリー、駄菓子などを袋から取り出し、机の上に並べて「あの店はあれがよかった」「あそこの店はお菓子が美味しかった」など、少女達の話題は尽きない。
「あ!」
 と、ポケットの入れたハンカチを取り出そうとしたルーアが小さな声を上げた。
「コーディさんに渡すように、ルビーさんから名刺を預かってたの忘れてた……」
「あや〜。早く渡したほうがいいね。寝てるかもしれないけど」
 これもついでにと、駄菓子を四人分小分けにしていたアサナが、袋を一つ取ってルーアに手渡す。
「もう、寝てるんじゃない?」
 言いながら、マーは明日の予定を書いたコーディの分のメモをルーアに手渡した。
「行ってくるね」
 二人の口とは正反対の行動に、苦笑しながら、ルーアは客室のある二階へと向かう。
 ノックをして、眠っているようなら、明日渡せばいいわ。ルーアは恋する男の部屋へと向かう、高揚した気持ちに胸を弾ませながら、階段を昇った。
 コーディの部屋は、階段を昇って直ぐ、右手の一人用の部屋だ。その向かい側にルーア達三人が泊まっている4人用の部屋がある。いくら仲良くなったからといって、さすがに男と同室というのは……とのマーの意見を取り入れて、コーディは一人別室になったのだ。
 階段を昇りきり、ルーアが部屋に近づくと中から話し声が聞こえた。反射的にルーアは気配を消し、扉に近づく。盗み聞きをするつもりは無い。しかし、アッサラームに来てから徐々に大きくなっていった不安感が、ルーアにそのような行動を取らせたのだ。
「まさか、この街に戻ってきてたとはね」
 少々くぐもっているものも、中の会話は扉の外でもよく聞き取れた。いや、ルーアの常人ならざる集中力が、それを可能にさせているのかもしれないが。
「………」
「何か言ったらどう?」
 聞こえてくる声は、どうやら女性のようで、彼女の一方的な会話が続いている。コーディは一切しゃべらない。
「ま、あたしに会いたく無かったってのは分かるけどね」
「……何の用だ?」
 
  ゾク……ッ

 ルーアは背筋に悪寒が走るのを感じた。コーディの声は、普段の明るい彼の声ではなく、ゾッとするほど冷たく低く恐ろしいものだった。
「そんな怖い声出さないでよ。別にたいした用じゃないのよ」
 女性はそれに怯む事も無く、会話を続ける。
「もし、今、良い目を見てるんなら、あたしにもお裾分けしてもらえないかと思ってさ」
「……どういうことだ?」
「さっき、楽しそうだったね。食堂で、女の子三人と仲良く食事だ何て。昔のあんたからは想像できないよ。幸せそうに笑っちゃって、一瞬人違いかと思ったくらい」
「何が言いたい?」
 コーディの語気が、さっきよりも尚鋭くなる。
「その瞳、その髪、その容姿。変わっていないね。アッサラームの富豪連中を虜にした……」
 彼女がそう言った瞬間、コーディの身体から濃厚な殺気が放たれる。気が弱いものなら、それだけで失神してしまいそうなほど、強い殺気だ。
 ルーアはビクリと身体を震わせ、持っていた菓子袋を落としそうになり、袋の口を強く持ち直した。
「……死にたいのか?」
 コーディは静かな、冷ややかな声でそう言った。今までと違い、女の方に動揺が走るのをルーアは感じた。
 今、コーディはどんな顔をしているのだろう?自分の知らない彼の表情を、見たいような見たくないようなそんな気分になって、ルーアは自分の感情に嫌悪を示し、眉根を寄せた。間違っても、人が殺気を持って誰かを脅す顔なんて、見たいと思ってはいけないものだ。
「お」
 暫し間をおいて、震える声を女が発した。
「お譲ちゃん達は知ってるのかい?
 あんたが昔、おおか……!!」
 コーディの殺気が一気に膨れ上がった。部屋の中で動く気配がするのと同時に、ルーアは勢いよく扉を開け、部屋の中へ流れ込む。彼女の手にあった菓子袋が床に落ち、中に入っていた飴玉が音を立てて散らばる。
 部屋の中では、コーディが抜き身の仕込みナイフを利き手に握り、今にも女を切り裂こうとする直前だった。ルーアは、
「ダメです!コーディさん!!」
 叫びながら女性とコーディの間に素早く割って入ると、全身で女性を庇った。本気の殺気の元で振り下ろされたナイフは、コーディの意思では止めることが既に出来ず、ルーアの身体を庇うように上げられた腕を深々と切り裂き、肉を絶ち骨を傷つけた。
「っ……!」
 声も上げずに、ルーアは痛みに耐えた。勇者として鍛え上げた、魔王をも倒した肉体だ。これぐらいでは、腕を切り飛ばされたりはしない。もしも、ルーア以外の人間が今の一撃を受けていれば、瞬時に胴が真っ二つになっていたであろう。
「コーディさん……ダメです……」
 腕からしとどに血を流しながら、ルーアは気丈に微笑みながら、コーディに言う。しばらく、我を忘れ、冷たい氷のような瞳で彼女を見ていた彼の目に、彼女の微笑によって理性の光が戻り始める。
「あ……あ……」
 ルーアの腕に深々と刺さる血塗れたナイフを持つ自分の手を、見つめ、コーディの顔が恐怖と苦痛に捩れていく。
「私なら、大丈夫です。コーディさん、ゆっくりナイフから手を……」
「うわぁぁあああぁあぁあぁあぁぁっっ!!!!!」

   ガシャァァアアァァンッッ!!!

 壮絶な叫び声を上げると、コーディは窓を破って外へと消える。
 ルーアは躊躇無く自分の腕に突き刺さったナイフを抜くと、手早くベホマの呪文を唱え、同じく窓から身を躍らせた。
「ななな、何があったの!?」
「ルーア!??コーディ!?」
 悲鳴を聞きつけて、アサナとマーが部屋に駆けつける。そこには、血まみれになった床と放り出されたナイフ。女性が一人呆然と立っていた。女性は割れた窓ガラスを、ただボーっと見つめている。
「何があったの!?二人は!??」
 マーが女性の肩に手をかけ、身体を激しく揺すると、彼女は我に返り、ゆっくりと指を窓へ向け、
「そ、外……」
「外!?」
 アサナとマーが窓に駆け寄ると、床に飛び散ったガラスの欠片がパキパキと音を立てて割れる。その音が響くにつれて、徐々に自分を取り戻した女はドアから逃げ出した。
「あ!待ちなさい!」
 二人が外へと追いかけるが、女は既に階段を下り、街の雑踏へと姿を消してしまった。

   ダンッ!

「くっ……!
 何がどうなってるの!?」
 マーが苛立ちに、宿の壁を力任せに叩く。
「マーちゃん……今の人、夕方にアサナ達が宿屋の入り口でぶつかった人だよ……」
「本当?アサナ」
「うん。服も同じだったし、ホイミするときに顔も良く見たから覚えてる」
「よし、じゃあ、宿の人に聞けば、何か分かるかもしれない!」
 二人は頷き合うと、宿のカウンターへと急ぐのだった。



 彼が通ると人込みがざわつくので、コーディの後を追うのは容易だった。
 返り血で濡た服を着た彼を、通行人は見咎めはしても呼び止めたりはしない。関わりたくないのだ。普段ならば薄情と思うかもしれないが、今はかえってその方がルーアにはありがたかった。状況を説明するのが面倒だからだ。彼を追う自分の腕にも、先ほど流したばかりの血がねっとりとこびり付いている。ベホマで傷は癒せても、流れ出た血まで消し去ることは出来ない。
 混乱したコーディは、街の中を無茶苦茶に駆け抜ける。教会の前を横切り、パフパフ娘の姐さん達の通りを抜けベリーダンスの劇場へ。無意識なのか、人の多いほうへと流れていく。ベリーダンスの劇場がある広場は、街一番の歓楽街だ。
 と、広場に入る手前で、人込みのざわめきが途絶え、混乱した気配も消えた。

 ----見失った!

 焦った一瞬、瞳の隅で月光の銀髪を捕らえた気がして、ルーアは過ぎた場所に視線を戻す。劇場の上、催し物の宣伝看板を取り付けるために設えられた階段の中ほどに、コーディの姿が見えた。急ぎ、階段を昇り後を追うと、屋上の作業用のちょっとしたスペースに、コーディが立っていた。
 彼の銀色の髪が、宵の口の巨大な赤い満月で薄っすらと朱に染まっている。
 今、コーディはどんな顔をしているのだろう?
 いつもの自分の知っている彼なのか、それとも、先ほどの女性が言っていた『狼』の顔なのか……
 いや、ひょっとすると、誰も知らない、彼自身も見たことが無い顔なのかもしれない。
 街を見下ろしたままの彼の背を見つめ、ルーアは思った。
 自分は、踏み込んでいいのだろうか?彼自身が隠したがっている、過去に……
 ルーアは、迷いと不安で、声をかけられずに、ただ彼の背を見つめ続けるのだった----



第七話  END