第八話 銀狼の慟哭



 赤い満月。まるで視界いっぱいが血で染まった一瞬が、まだ続いてるかのようだ。見るもの全てに現実感が無く、空虚に感じる。巨大な劇場の上から見下ろした広場に蠢く人々は、まるで蟻の群れのよう。ざわざわと蠢いて、甘い歓楽の密に群がっている。
 ああ、あの時も確か、こんな気持ちで見ていたんだ。不意に既視感に襲われ、コーディは薄ら笑いを浮かべた。変わったと、変われたと思っていても、人間そうそう変われるものじゃないらしい。どんなに純粋なものに洗い清められたとしても、汚れるときは一瞬だ。
 そして、宙に浮かぶ巨大な血の色の満月。赤黒いところまで、あの日と同じだ。ただ、違うのは、満月を見つめる自分の背に彼女が立っていること。彼女の存在が、自分をあの頃とは違い、狂気に駆り立てるのを止めてくれている。薄ら笑いを微笑みに変えると、コーディは後ろを振り返った。

「ルーア」
優しい瞳をこちらに向けて微笑むコーディに、名を呼ばれ、ルーアは安堵して胸を撫でおろした。良かった。いつもの彼だ。
「コーディさ……」
 声をかけ、近付こうとする彼女を、コーディが制した。まるで幼子に注意する時のように人差し指を唇に当て、静かに微笑んだ。
ルーアは何故か言い知れぬ恐れを感じて、ビクリと体を震わせ、立ち竦む。
「腕、ごめんな。痛かっただろ……?」
「いえ、すぐにベホマで治したから平気です……」
「そっか、ごめんな」
 コーディは、しばらくルーアの腕----自分が深く切りつけた場所を見つめていたが、くるりと再び彼女に背を向けた。
「コーディさ……」
「あーあ…っ!もう、嫌になっちゃうなぁ……どんなに自分で捨てても、結局は昔の自分が戻ってきやがる!!」
 コーディは唐突に頭を抱えてしゃがみ込むと、大きな声で吐き捨てるように言う。
「あれからもう随分経つのに、未だに夢にみるし!
 二度と行かない二度と会わないだろうと思ってても、結局、来てるし会うしで……どこまで逃げても、逃がさないってことか?
 ったく、運命ってやつは……っ!」
 普段とは違う、コーディの荒々しい態度に、ルーアは声をかけられず、じっと彼を見守っている。
 コーディがひとしきり吐き出してしまうと、周囲に沈黙が訪れた。広場の喧騒が直ぐそこにあるのに、今の自分達とはまるで違う世界にあるようで、耳に遠く響く。
 と、足下がざわめいた。劇場が開演したのだろう。広場に集まった人々が劇場の中へと吸い込まれていくに連れて、足下のざわめきは増していった。ざわざわと足の下で大勢がひしめく感覚は奇妙で、まるで巨大な蟻の巣の上に立っているかのようだ。徐々にざわめき静まると広場の人々の大半が劇場に移動していた。
「蟻の巣の上にいるみたいだよな」
 声にハッと意識をコーディに戻すと、彼は看板の縁に足を組んで酷くリラックスした様子で座っていた。膝に右手の肘を置き、顔を手にもたれさせてルーアを見ている。
「人も蟻もそんなに変わらない。毎日忙しく働いて、食べるため、生きるために必死だ」
「そうですね……」
「娯楽や享楽に耽られるのは、余裕のある金持ち達だけだ。働き蟻がせっせと働いたもので、女王蟻は贅沢三昧……」
「でも……女王蟻は卵を産みます。新しい命を育むために皆一緒になって頑張ってるんですよ」
「ルーアらしいな」
 暖かく語る彼女を見、コーディは優しい瞳で微笑む。
「でも、世の中、色んな奴がいる。女王蟻や働き蟻が頑張ってる横で、仕事もしないでそのおこぼれだけをいただいて、自堕落に生きてる奴らがな」
 コーディの瞳がすうっと薄く鋭くなり、冷たくなった。
「そんな奴らは、まっとうな奴らには思いつかないような方法で、享楽に耽るもんだ」
 言って、コーディは口の端を吊り上げて、薄く笑う。
「昔な、この辺ではそういう貴族や金持ちどもの遊び場があったんだよ。魔物と奴隷を戦わせたり、物珍しいモノを見たりする場所が。そこに貴族達は仮面をつけて素性を隠し出入りして、日頃の退屈な日々に楽しみをって過ごしたわけだ。世の中、魔王バラモスが現れて大変なときにな」
 言って、コーディは口の端を吊り上げて嘲笑するのを、ルーアは何も言わずにただじっと見つめていた。勇者として世界を旅する間に、色々なものを見てきた。上に立つ者たち全てが正しく、民衆を治めているばかりではないことも知っている。コーディが言うことも理解できる。ただ、彼の口からこのようなことが語られるのは酷く悲しかった。
「ルーア、オレはきっと、君の側に居るべきじゃない」
「! そんなっ!」
「君はきっと何もかも許して受け入れてくれるだろうけど、オレは、君に自分の罪を話したくないんだ」
「そんな!私は話して欲しいなんて思っていません!今ここに、そのままでいる……コーディさんでいいんですっ!!」
 必死に張り上げるルーアの声に次第に嗚咽が混じり始める。
「誰だって、過去を持っていますっ!コーディさんだけじゃないっ!!私やマーやアサナだって……っ……私たちだって……世界を救うためと言って、色々なことをやってきました……っ!!人に言えないことだって……ありますっ!!でも、でもそれでも!!!」
「ルーア……」
 コーディは彼女の瞳から流れ落ちる涙を見て、それを拭おうと側に行きかけて止めた。それを見て、ルーアの瞳からはさらに大粒の涙が零れ落ちていく。
「コーディさん、駄目ですっ!駄目……っ!!違うの、そうじゃないの……っ!!
 今のコーディさんが、私たちと今居るコーディさんが……っ。仲間なんです……っ!昔なんて関係ない……っ!!」
 自分が何を言ってるか、もう、分からなくなってきていた。ただ必死に、今止めなければ、コーディは行ってしまう。きっと、二度と自分達の前には現れてくれない。ルーアは無我夢中で彼に言葉を連ねる。
「コーディさんっ……私は、私は今のコーディさんが……いえ、例え過去に『狼』と呼ばれて何かしていたとしても、私はコーディさんのことが好----」
 次の言葉は告げられなかった。
 ルーアの口は、コーディの胸で塞がれていたから。
「今はまだ、言わないで」
 コーディはルーアをきつく抱きしめると、彼女の耳元でつぶやく。
「コーディさん……」
 抱きしめられたまま、ルーアはコーディの顔を見上げる。
 彼の顔には、微笑が浮かべられていたが、その瞳は深い悲しみで彩られていた。
「今はまだ、その資格が無いから。だから……」
 コーディは、ぎゅっと彼女を抱きしめる腕に力を込める。ルーアもそれに応えるように、彼の背へと腕を回し、きゅっと抱きしめた。
「また、会ったときに……今度はオレから言うよ……」
 コーディはそっと零すようにそう告げると、触れるか触れないかな微かなキスをルーアの頬に落とす。
「コーディ……!」
 驚き、彼女の腕が緩み、彼の顔を見ようとした刹那、コーディはトンッと彼女の肩を軽く押し、自分の身も後ろへと跳ねさせる。
「待ってっ!!」
 手を伸ばし、彼を掴もうとしたルーアの手はそのまま空中を掴んだだけだった。
 コーディの身体は屋上の縁を越え、空中へと高く舞ったかと思うと、広場の雑踏へと消えていく。
 ルーアも後を追おうと屋上から飛び降りたが、広場には彼の姿は既に無く、突如上空から現れた少女に驚く人々がいるのみである。
「コーディ……さん……」
 ルーアは彼の唇が触れた部分をそっと指先で触れると、瞳の中に溜まっている涙を全て出してしまうかのように、きつくきつく目を閉じる。そして、再び瞳を開いたときには、彼女の瞳からは強い決意の炎が宿っていた。瞳に薄く残る涙の雫を手の甲でぐいっと拭うと、彼女は夜の繁華街の雑踏の中へと消えていった。



「嫌な雨……」
 夜半から振り出した雨に濡れる建物を、真新しいガラス窓越しに眺めながら、マーはつぶやいた。
 部屋には彼女独りきり。漏らした言葉も雨音に消えていく。
 コーディとルーアが宿を飛び出して、既に数時間が経過していた。コーディが破った窓の破片も今は綺麗に片付けられている。ただ、床に残った血の跡だけが、ここで何かがあったことを物語っている。
 二人と共に部屋にいた女のことを、宿の主人に尋ねてみたが、宿の主人は、
「あの女もあなた達のことを、同じように、何者かと尋ねてきたんですよ……」
と、オロオロしながら応えるばかりだった。とりあえず、一旦コーディの部屋に戻り、何があったのか探ろうと調べてみたが、床に散らばったガラスの破片と、おびただしい血痕が残されているだけで、手がかりになりそうな物は何も見つからなかった。彼の荷物も一応調べてみたが、着替えや雑貨、旅の道具などしかなく、特に目を引くものは見当たらなかった。
 床に広がる血を見つけたマーは酷く動揺し、二人を探しに行くと取り乱すのを、誰かが留守番残っていないと二人が戻ってきたときに困るとアサナが宥め、彼女を残して宿を出て行った。
 アサナが出かけて程なく、宿の女中がガラスの破片や血などを掃除しに来た。宿を出るときにアサナが手配したのだろう。ちらちらと窓辺に座るマーを盗み見ていたが、何も聞かずに女中は掃除を済まし、
「窓は後ほど修理の者が来ますので……」
とだけ言うと、部屋を出て行った。
 こういう時のアサナはいつも冷静で大人だと思う。普段はあんなに子供っぽく見えるのに、いざという時はパーティの誰よりも頼りになるのだから不思議である。
「……はぁ……」
 マーはため息をついて、部屋の入り口へと目を向ける。誰も帰ってこない。
 夜の雨は冷える。三人とも早く戻ってこればいいのに。
 マーはドアから再び窓の外へと目を移すと、再び深くため息をつきながら、黒々と濡れた街を眺めた。



 もう、何件の酒場や情報屋を回っただろう?
 雨も降ってきた。早く二人を見つけなければ……アサナはマントのフードを深く被りなおし、何十件目かになる情報屋の元へと急いだ。

  カラン カラン……

 アサナが店のドアを開けると、澄んだベルの音が店内に響いた。店の中の者たちが、アサナを見る。フードを目深に被っていて、顔は良く見えないが少女ともいえるような年頃の彼女は、明らかに店内で浮いていた。
「いらっしゃ〜い?お譲ちゃ〜ん、何の御用かしらん?」
 しなを作った遊女の一人がクスクスと笑いながら、彼女の腕に自分の腕を絡ませてくる。アサナは女のことなど意にも介さず、店の中ほどにあるカウンターの連絡役らしき男に向かって、
「情報屋に聞きたいことがあるの。通して」
 と、ぶっきらぼうに言った。
「あぁ?何だぁ?おい、譲ちゃん、ここがどんな場所か分かってんのかぁ?
 情報屋なんぞ、どこにもいねぇよ!
 それとも何か?譲ちゃんはここで働きたいのかぁ?あん?」
 男は下卑た笑いを浮かべながら、カウンターから出てきた。そして、アサナの顔を良く見ようと顎に手をかけようとする。
 が、

  ダァンッ!!

 そこにあったと思った男の姿が一瞬で店の壁に打ち据えられていた。女達も、男自身も何があったのか理解できず、呆然としている。アサナの腕に絡んでいた遊女が、恐れ戦いて腕を放し尻餅をつく。
「私、急いでるの。余計なことに時間を取られたくないわ。さっさと呼んで」
 アサナは冷たく言い放つと、フードを下ろした。
「ば、化け物……!!」
 男が擦れた声で呟くと、アサナは唇の端を自嘲気味に持ち上げ、薄く笑った。
「そうよ、化け物よ。殺されたくなかったら、さっさと----」
「何事だ!?」
「何よ、いるんじゃない。だったらそう言いなさいよ」
「何だと!?てめぇ、俺様を誰だと……!!」
 騒ぎを聞きつけ、慌てた様子で店の奥から飛び出てきた男を見て、アサナは連絡係りに向かい掲げていた手を下ろした。
「これはこれは!アサナさん!お久しぶりです!
 本日はどういったご用件で?」
 奥から出てきた男は、アサナの姿を見ると態度を急変させ、揉み手をしながら彼女の下に跪いた。
「欲しい情報があるの」
「それはそれは、是非是非お役に立ちたい所存です。ここでは何なので、どうぞ奥へ……
 ああ、お体が濡れているではありませんか!おい、誰かタオルを----」
「いらないわ」
 遊女の一人が慌てて持って来たタオルを、アサナは手で制しなが断ると、足元で腰を抜かしたままの遊女をタオルを持って来た遊女に預けた。
「ごめんね、驚かして」
 アサナは彼女に謝ると、短く口の中で呪文を唱える。フォンっと風が舞い上がる音と共に、アサナの周りから暖かい風が吹き出し、彼女の髪やマントを大きくたなびかせた。周囲の者が呆気に取られたまま見ていると、パサと軽い音を立てて、マントも髪も元の位置に戻る。
「乾いて……」
 遊女の一人がポソリと呟く。今の一瞬で、あんなにも濡れていた彼女の身体も衣類も乾いていたのだ。メラの呪文にアレンジを加えて、水分を一気に蒸発させる。並みの魔法使いが使用したら熱量を間違って、大火傷もしかねないのだが、これくらいのこと、賢者ともなればお手の物である。
「さすがはアサナさん!ささ、奥へどうぞ」
 男に勧められるまま、アサナは奥への扉へと向かう、扉が閉まる直前、不意に思い出したかのようにアサナは振り向き、へしゃげた壁の前で蹲っている男に向かい、ホイミの呪文を唱えた。
「!?」
 手をかざされて、怯えて腕をかざした男だったが、先ほどまでズキズキと痛んだ背中の痛みが消えていることに気づいて、閉まる扉をはっ見つめた。
 アサナが奥へと消えた後、店内はあの少女は何者だ?という話で花が咲いた。

「申し訳ありません。何か不都合がございましたか?」
 男は客間へとアサナを導きながら、問うた。
「いえ、特にないわ」
「そうでしたか……いえ、あの連絡係の男はちょっと考えなしでして……」
「いいのよ。気にしてないわ。こっちもいきなりふっ飛ばしちゃって悪かったと思ってるし」
「いえいえ、滅相もございません。何を……」
「ちょっと軽めのバギをかけただけ。切り裂く風をアレンジして指向性にして一直線に飛ぶように……分かる?」
「……」
「まぁ、いいわ」
「こちらです」
 男が開いた扉の先には、豪奢な部屋があった。金糸を使用したボリュームのある絨毯、フカフカなクッションとソファ、そして、この地方では珍しい植物の鉢など、滅多に見られない贅沢品だ。
「……だいぶ儲けてるようね」
 先ほどよりも冷たくなったアサナの声に、男は恐縮して畏まった。
「あまり無茶なことして儲けてるようなら、私としても見逃すわけには行かないけど」
「め、滅相もございません!!ちゃんと真っ当な仕事で儲けたお金ですよ!!」
「本当かしら?」
 冷たい目でアサナは言うが、態度ほど悪いことをしているとは思ってはいない。先ほど店で目にした姐さん達は皆、健康で生き生きとしていた。悪条件で仕事をしている訳では無いのだろう。
「ささ、お座りください」
 アサナが座ると同時に、飲み物が運ばれ、卓の上に置かれる。アサナが好きな、紅茶に蜂蜜を垂らしたハニーティーだ。
「いたれりつくせりね」
 アサナは紅茶に口をつけ、小さく笑った。
「アサナさん達には、お世話になりましたから」
 男は懐かしく遠くを見る目で卓に置かれたカップを見た。
 男はかつて、大盗賊カンダタの手下の一人だった。バハラタ北東の洞窟で勇者一向に敗れてから、親分のカンダタはこれから真っ当に生きるようにと少なくは無い金を渡して、手下達を闇の世界から足を洗わせた。三度目は無いと言った勇者の言葉もあっただろうが、カンダタは何よりも勇者の少女に心酔していた。美しく、気高い勇者に----
 自分もあの時足を洗っていなければ、いや、勇者一向に出会わなければ、こんなにも変われることは無かっただろう。確かに未だに真っ当とは言い難い職業だが、盗賊よりは遥かにましだ。妻も娶り、子供も近々に産まれる。一生裏街道を歩いて、どこかで野垂れ死ぬであろう末路を変えてくれたのは、勇者一向だった。年端もいかない少女達、勇者だと、世界を救うのだと聞かされたときは、鼻で笑ったものだが、彼女達は自分らを、親分を打ち負かし、やがて世界を救った。世界に平和が戻ったときのあの感動、自分も知る少女達が世界を救ったのだ。きっと、自分にも彼女達に恩を返すために何か出来るはずだと始めたのが、この商売だった。今まで、底辺の労働条件で働かされていた者達を救う。それが男が決めたことだった。お天道様があたる日向を歩かせてやることは出来ないかもしれないが、闇ではない、日向に近い日陰は歩かせてやれる。男はカンダタから貰った金を元手に、商売を始めた。
「で、欲しい情報なんだけど……」
「あ、はい!」
 アサナの声で、男は我に返った。横柄な態度だ、この少女がどれだけ優しいかも知っている。自分のような者にも、もっと酷い者にも。
「この男の情報が欲しいの。多分、昔この街にいたんだと思うんだけど」
 アサナは似顔絵が描かれた小さな紙を男に差し出した。